「いっのうっえー!」
がたんと音をさせて目の前の椅子が鳴る。
それだけで元気な声が自分を呼ぶものだから、
早苗は読んでいた本から目を上げ不思議そうに相手を見た。
黒いツンツン髪の頭、楽しそうに輝く大きな目。
笑顔を向けているのは岡崎で、
早苗は瞬いて軽くメガネを押し上げた。
「な、何……?」
「あのさあのさ、井上って部活やってんの?」
一つ前の席で、後ろ向きに椅子をまたいで
座った岡崎が唐突にそんなことを言う。
早苗は一体何なのかわからず戸惑いながらも
勢いにおされてしまう。
「何もしてないけど……」
何もしていない、帰宅部だと答えた。表面上は冷静に。
だが内心はかなりの緊張で占められている。
話し掛けられる理由が見当たらない。
質問の意図もわからない。戸惑いに視線が泳ぐ。
岡崎はにーっこりと笑った。明るい笑顔が早苗には眩しい。
「じゃあさ、練習見に来ねぇ? んで応援してよ! そんで出来たら一緒に帰ったりしよーぜ! あ、っていうか井上の家ってどこ!?」
「え、と……」
机の上に乗り出すようにし次々と言葉を重ねられ、
早苗は身を引く。固まってぎこちない身体は、
それでも無理に引かねば顔が近い。
向こうは気づいていないのか気にしていないのか知らないが、早苗は気にする。
岡崎はしどろもどろに答える早苗に嬉しそうに目を見開く。
「うわ、俺んち近いじゃん! よっし、送ってくからさ! 見に来てよ!」
と、言いたいだけ言うが早いか、
返事を待たず岡崎はその席を離れていった。
突然のことにただ流されるしかなかった早苗は
呆気にとられたまま見送るしかない。
話しかけられただけで驚いていたというのに、
部活の練習見学に誘われ、さらには決定されてしまった。
「騒がしい」
クールな呟きとともに椅子がまた動き、
本来の前の席の主であるところの加納が収まった。
早苗は岡崎と加納の温度差に小さく苦笑し、再び本へと目を落とす。
こんなことは人生史上初かというほどに異常な事態で。
どうしようか、行ってもいいのかな。
思考はすぐにそこに向かい、
目は文字を追っても内容は頭になんて入ってはこず、
何度も同じ行の上を視線が行き来していた。
「岡崎ー」
「おーっ」
窓際に立つ山本に名を呼ばれた岡崎は、並ぶ机の間を擦り抜けて近付き、友人を見上げた。
楽しそうな表情に、先ほどの言動の様子を見ていた山本は呆れ混じりに笑った。
「なんで井上誘ったんだ?」
「ああ、だってなんか、井上って面白そうなキャラしてると思わねぇ?」
「そうか?」
山本はちらりと読書を続けている早苗を見遣った。
どう見ても、彼の目には“面白い”と思わせる要素など見えないのだが。
どちらかというと、と判じるまでもなく、
真面目な模範生。つまらないとは言わないが
面白いという言葉にはどうしても疑問が生じるようなクラスメートだ。
「それにっ!」
声に山本の視線が早苗から岡崎へと戻ると、
そこにはいつもに増した笑みが浮かんでいた。
「船橋からかうネタになるかもだしな!」
「それが狙いかよ」
「くしししっ」
悪戯を思い付いた悪ガキのように笑う岡崎の頭を、
山本はぽんぽんと軽く叩く。
そんなことに巻き込まれる早苗を可哀相に思いながら、
それでも岡崎を止めはしなかった。
彼自身、しっかり者の船橋が慌てたり
動揺したりすることがあるものなら
見てみたいと思ったのだ。
「ただのイトコ、らしいけどな?」
「その辺はまあ気にしない!」
言うであろうと予想した答えが返って山本はまた笑う。
単純明解。それが岡崎のいいところなのだと知っていた。
CLAP*