「井上ー!」
1−Bの教室の中、遠くから呼ぶ声がして早苗は思わず勢いよく顔を上げた。
見ると、教室の後方のドアのところによく見知った人物が軽く片手を上げて立っているのをすぐに見つけられた。
声でそれが誰だかはわかっていたが、
姿を確認して早苗は目を丸くする。
何故なら、高校に入学して二ヵ月経つものの
その人物が訪ねてきたことなど初めてであったのだから。
クラスの中でも特に目立たない井上早苗への来客。
そんな珍しい出来事に集まるクラスメートの視線が
気になりながら、彼女はぱたぱたとドアへと駆け寄った。
上げていた手を下ろして待っていた彼は、
用件を尋ねると早苗より結構高い位置にある坊主頭を掻いた。
「悪い、古文のノート貸して」
「教科書とかじゃなくて?」
「うん、ノート。やろうと思ってたんだけど訳すの忘れてて」
その言葉で彼が必要としているのは予習をしたノートなのだと理解する。
古文の授業では一人一人指名されて、
原文と訳を言わされるのだ。
初めて借りに来たということは、
いつもはきちんと予習をしてるということなのだろう。
「合ってるかわかんないよ?」
「ああ、それはいいから」
「ん、わかった。ちょっと待って」
早苗は頷いてみせると、ノートを取りに自分の机へと戻った。
机の中の教科書類の間から目的のものを探し出すと、早苗はノートを手に彼を振り返る。
すると、そこにはわずかな時間でクラスメートが数名
集まっていた。その彼らの上から一人高めの頭が見える。……今時坊主頭は何気に目立つ。
「なんだよ船橋ー、なんで俺らに借りようとかしないんだよー」
「お前らやってないだろうが」
「そんなの聞く前から決め付けんなよー!」
早苗に借り物に来た船橋直輝にやたらと絡んでいるのは
小柄な岡崎薫。笑いながら傍に立っているのは
いかにもスポーツ少年といった風情の山本邦博だった。
彼らが同じ部活で親しいのは何となく知っていたが、
こうして話しているのを見ると本当に仲がいいのだと
改めて認識する。
「あ、サンキュ」
「うん」
彼らの中に入れず
掻き分けて進むことも出来ずにいた早苗に気付いて、
船橋が手を伸ばす。
こういう風に何も言わなくても気付いてくれる、
そんなところが早苗は昔から好きだった。
船橋が会話を中断したからか早苗がやってきたからか、
岡崎と山本の話も止まって。
向けられる顔に注目をされてるようで内心緊張しながら、
早苗は軽く歩み寄り出された手にノートを差し出した。
「今日中に返すからな」
渡してしまうともう用はなくなる。
だから早苗は了解の返事をすると、そそくさと席に戻った。
クラスメートとはいっても
ほとんど話したこともない男子たちと一緒になって
会話に混ざるなんてことは、
どう足掻いたところで早苗には出来っこない。
――これだけのことが、早苗の日常を変えるきっかけ
になるだなんて気づくはずもなく。
早苗が席に戻っても、彼らの会話は続いていた。
岡崎が大きな黒い目を好奇心に輝かせる。
「なあなあ船橋、井上と付き合ってんの!?」
「は?」
向けられる問い掛けに船橋は眉を寄せた。
だがそんな目を向けられていても
岡崎は気にする様子などない。
もしかしたら気付いてもいないのかもしれない。
さらには山本も船橋の肩に手を置いて笑い、口を挟む。
「仲良さげだよなぁ」
「なあなあなあ! どこまでいったんだよ!?」
「……あのな、俺たちは単にイトコなんだっつの」
物を借りにくるのだから仲は悪くはない。
それでも昔から知っている彼女を
そういう風に見たことはないから、
そんなことを言われても困るというものだろう。
からかいを受けるだろうことは予測出来ていたからこそ
これまでは極力接触を避けていたのだが。
「えー、チューは〜?」
「するかっ!」
調子に乗る岡崎に顔をしかめた船橋のツッコミの手が、勢いよく岡崎の頭を叩いた。
CLAP*