03 - 潮の匂い
遠くでいくつもの大きな声が聞こえている。
ゆっくりと瞼を持ち上げると腕にあたる
日差しを感じた。明るいと思えば、そう、
もう昼頃なのだろう。
あたたかい。……だが胸は逆に冷え早鐘を打ち始める。
のんびりしているわけにはいかないと気が焦る。
「目が覚めた?」
天井と日差しばかりだった視界に、
濃い赤茶の髪がふわりと揺れて入ってきた。
優しい笑顔がそこにあり、
身構える様子を気にすることもなく、
その女性は微笑みかける。
「気分はどう? 水よ、飲むといいわ。
何か食べられそう?」
「だ、れ……」
「私はロザリー。この船で……そうね、みんなの世話係みたいなものかしら」
起き上がろうとした少女にロザリーは手を貸し、
コップを手渡す。水は冷えていて手のひらが気持ちよく、
急に喉の乾きを感じて少しだけ口に含んだ。
「食欲はないかしら。何かお腹に入れた方が
いいんだけど、スープくらいなら大丈夫?」
ロザリーが頬に手を当てる。
「うん、熱は下がったみたいね。どう、食べられそう?」
若干勢いに押されるように頷くと、
ロザリーはにこりと笑って部屋を出ていった。
一人になって、改めて周囲を見回してみる。
木造のそこは、最初に目覚めた時に思った通り
あまり新しいとはいえないが、そこまで古くもなく、
不快でもなく、逆に好ましく思えるような、
質素ながらも綺麗なものであった。
潮の匂いと揺れで、海上であることはわかる。
記憶も海上で途切れている、つまりは助けられたと、
そういうことなのだろう。
それでも、とさらに考え込みかけたところで
ロザリーが戻ってきた。
「何とかギリギリ朝のスープが残ってたわ。
うちは食欲旺盛なのが多いから」
椀からはあたたかな匂い。
食欲はないと思っていたが、素直に手が出た。
身体が受け付けるかわからないからゆっくりね、
と続けられたのは“食欲旺盛なの”を
いつも相手にしているからか。
「……そういえば」
一口、二口、とスプーンを口まで運んで、
夜中だと思われるあの目が覚めた時のことを思い出した。
「あの、ルカ……という方も船員なのですよね」
「ルカ? うーん、そうね、本人に聞いてみるといいんじゃないかしら」
「え……」
「ねぇ?」
言われて知る。また気配に気付かなかったのだと。
ルカと名乗った人物は部屋の壁にもたれかかって立っていた。
黒髪の、暗闇の中で声だけだった印象よりも若い、
自分ともそうは変わらないと思える少女……否、
少女と女性の狭間といった容姿をしていた。
同時に、どこか中性的な雰囲気を感じさせる。
「ねぇ、って言われてもね、ロザリー。
こっちは簡単に説明してくれて構わないんだけど」
「あーら。ルカはいつから恥ずかしがり屋さんに
なったのかしら〜? それとも面倒臭がりさんかしら」
にっこり笑ってのロザリーの言葉にルカは苦笑する。
すると一気に印象が変わり、少女の顔になった。
ルカはベッド脇に歩み、そこに腰かける。
「覚えてるんだよね、私の名前。ってことは、
私は別に名乗る必要はないわけだ」
「名前は、です。それ以外のことは聞いてませんもの」
つんとした口調にかルカは笑う。
そのことに少女はむっと表情を動かす。
しかしその顔がルカの笑みを誘っているのだとは
気付かない。
「それより、お姫さまのことを知りたいかな、私は」
「わたくしのこと……」
「まあ言いたくないなら構わないけどね。
私相手が嫌なら人員はいくらでもいるから
好きなの選べばいいよ」
一人で鬱々としているよりは誰かと
喋っている方がいい。あっさりと言うルカは、
戸惑いを浮かべる少女に気付かないふりをして
立ち上がった。
部屋を出ていくルカと入れ替わりに少年がやってきて、
ベッドの間際に椅子を運んだかと思えば
跳ねるようにしてそこに座る。
「目が覚めたんだ。じゃあルカはみんなに
知らせに行ったのか。よかったね、
オレらが通りかかってさ」
にこにこと愛らしい笑顔に、
張っている気持ちがゆるむ。
「ええ、ありがとう。幸運だったのでしょうね。
神に感謝しなくては」
「っていうか、神サマよりオレに感謝してよね。
お姉さん見つけたのオレなんだからさっ」
「あなたが……そう、ありがとう」
礼を口にする少女に、少年はアーヴェルと名乗り
嬉しそうに笑った。薄い水色の瞳が煌めく。
「ね、なんであんなとこに一人でいたの?
自分のこととかちゃんと覚えてる?
あ、そうだ名前は?」
疑問に思ったことを次々と投げかけてくる
アーヴェルに戸惑っていると、
ロザリーが助け船を出すように問いを遮った。
「アーヴェル、珍しいお客さまに興味深々なのは
わかるけど、疲れてるんだから困らせちゃダメでしょう」
軽く叱られアーヴェルは子供らしく頬をぷくっと
膨らませる、その様子が可愛らしくて、微笑が浮かぶ。
「わたくしの名前はアイシャというの。
命の恩人とお話ができるのは嬉しいことですわ」