「なあ、俺と付き合わない?」
――これは一体どういうことなのだろう。
早苗は必死に自分の置かれた状況を思い出す。
朝から普通に授業を受けて。
放課後になって野球部の練習を見に来て。
笹木と並んでグラウンドを眺めていて。
今井も現れ笹木と一緒になって
応援をしたり騒いだりをしていて。
かと思えば今井は去っていって。
まったくいつも通りといえる時間を過ごしていたはずだ。
特別なことなんて何もない、日常。流されるままに、過ごして。
グラウンドでは、変わらない光景がそこにあって。
あちこちから、そこここから、
元気な溌剌とした声が聞こえてきている。
だけどそちらを見ることに集中することを許してくれないように、向けられる声は続く。
「返事は先でいいからさ。考えてみてくんない?」
――隣を。
隣を向くことが、その人を見ることが、出来なくなる。
日常の中の、いつもとなんら変わらない時間のはずなのに。
彼が何気なく発した一言で、早苗は頭の中が真っ白になってしまった。
「笹木く、ん……」
「いやーなんかハズいな」
早苗にとっては恥ずかしいどころではなく、
喋ること動くこと何もかもを忘れてしまったかのように、
照れて笑う笹木を横に戸惑うばかり。
こんな事態は彼女にとって生まれて初めてのことで。
一緒に過ごすこの時間は楽しかったが、
早苗にとってはそれだけで。
「……じゃあ俺、今日は先に帰るな」
そう言って彼が立ち上がっても、早苗は動けずにいた。
視線の先を誰かが走っている。
だがその光景はただただ目に見えているばかりで、
それが誰かすらも、考えられなかった。
風が熱を伴って吹き抜けるから、草がさわさわ鳴って、髪も揺られて。
聞き慣れたグラウンドでの部活に励む声、野球部の球を投げる音や打つ音、サッカー部のホイッスル、様々な音が遠くの方で聞こえている。
――どうして。
その言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る。ぐるぐるしすぎて気持ちが悪くなりそうだった。
どうして、彼はあんなことを言ったのだろう。
冗談……ではないように聞こえた。
どうして、自分なんだろう。
彼とはここで並んでグラウンドを見ているくらいしか、
大して関わりはなかったのに。
どうして、私……?
好かれるような要素なんていのに。
自分でさえ自分を好きになんてなってやれないのに。
早苗は自分に自信なんてなかったから、
いいところなんてないと思っているから、
笹木の言葉を疑ってしまう。……それよりも
これは夢なんじゃないか。そう、自分をも疑う。
「井上さん?」
間近で掛けられた声にはっとすると、
心配そうな瀬尾の顔がそこにあった。
「え、あ、何?」
「練習終ったよ? どしたの、大丈夫?」
言われて気付く。聞こえていた声も音もなく、日も傾いて……いるのを大幅に超えた空が広がっている。
部員たちは着替えに行っているのだろう。
見える範囲にはもう誰もいない。
すっかりと時間が経ってしまっていたことに、
早苗は慌てて立ち上がった。
「大丈夫、暑くてぼーっとしてただけだから」
「ホントにまだまだ暑いよね」
「そうだよね」
――嘘は、吐いていない。
なんだか訳もわからず感じてしまう
居心地の悪さを押し隠して、
早苗は瀬尾と笑い合った。
CLAP*