scene28

「なあ、俺と付き合わない?」

 ――これは一体どういうことなのだろう。

 早苗は必死に自分の置かれた状況を思い出す。
 朝から普通に授業を受けて。
 放課後になって野球部の練習を見に来て。
 笹木と並んでグラウンドを眺めていて。
 今井も現れ笹木と一緒になって 応援をしたり騒いだりをしていて。
 かと思えば今井は去っていって。

 まったくいつも通りといえる時間を過ごしていたはずだ。
 特別なことなんて何もない、日常。流されるままに、過ごして。
 グラウンドでは、変わらない光景がそこにあって。 あちこちから、そこここから、 元気な溌剌とした声が聞こえてきている。
 だけどそちらを見ることに集中することを許してくれないように、向けられる声は続く。

「返事は先でいいからさ。考えてみてくんない?」

 ――隣を。
 隣を向くことが、その人を見ることが、出来なくなる。
 日常の中の、いつもとなんら変わらない時間のはずなのに。
 彼が何気なく発した一言で、早苗は頭の中が真っ白になってしまった。

「笹木く、ん……」
「いやーなんかハズいな」

 早苗にとっては恥ずかしいどころではなく、 喋ること動くこと何もかもを忘れてしまったかのように、 照れて笑う笹木を横に戸惑うばかり。
 こんな事態は彼女にとって生まれて初めてのことで。
 一緒に過ごすこの時間は楽しかったが、 早苗にとってはそれだけで。

「……じゃあ俺、今日は先に帰るな」

 そう言って彼が立ち上がっても、早苗は動けずにいた。
 視線の先を誰かが走っている。 だがその光景はただただ目に見えているばかりで、 それが誰かすらも、考えられなかった。

 風が熱を伴って吹き抜けるから、草がさわさわ鳴って、髪も揺られて。
 聞き慣れたグラウンドでの部活に励む声、野球部の球を投げる音や打つ音、サッカー部のホイッスル、様々な音が遠くの方で聞こえている。

 ――どうして。

 その言葉ばかりが頭の中をぐるぐる回る。ぐるぐるしすぎて気持ちが悪くなりそうだった。

 どうして、彼はあんなことを言ったのだろう。 冗談……ではないように聞こえた。
 どうして、自分なんだろう。 彼とはここで並んでグラウンドを見ているくらいしか、 大して関わりはなかったのに。
 どうして、私……?

 好かれるような要素なんていのに。 自分でさえ自分を好きになんてなってやれないのに。
 早苗は自分に自信なんてなかったから、 いいところなんてないと思っているから、 笹木の言葉を疑ってしまう。……それよりも これは夢なんじゃないか。そう、自分をも疑う。

「井上さん?」

 間近で掛けられた声にはっとすると、 心配そうな瀬尾の顔がそこにあった。

「え、あ、何?」
「練習終ったよ? どしたの、大丈夫?」

 言われて気付く。聞こえていた声も音もなく、日も傾いて……いるのを大幅に超えた空が広がっている。
 部員たちは着替えに行っているのだろう。 見える範囲にはもう誰もいない。
 すっかりと時間が経ってしまっていたことに、 早苗は慌てて立ち上がった。

「大丈夫、暑くてぼーっとしてただけだから」
「ホントにまだまだ暑いよね」
「そうだよね」

 ――嘘は、吐いていない。

 なんだか訳もわからず感じてしまう 居心地の悪さを押し隠して、 早苗は瀬尾と笑い合った。






CLAP*